音無きさまのこと | On Silence
2026年5月29日
2026年5月25日
Published on May 25, 2026
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2026年5月25日(月)随筆
限りのこと
皆さまも限りといふものが居りとわかりゐるけむと思へども、真に居りか居らずか考はずむず。哲学にて、限りといふことがある物の量が足りなり、物の質こそが変はれといふ書かる。その考へ様でさへば、限りといふものが物の果てならず、物の変はりの始めのごとし。あるさまから他のあるさまに変はりの隙間なりと思ひ得、または変はるときそのもの、そのさまと思ひ得。
この度、また即時通信会にて、百種の此方のごとき人々を会ふとも、彼方がをさをさ思ひ励まで、朝夕己の命がいと苦しと喚くものの、此方が助きたしと思ひ、あらゆる様を出でしが、毎回己なればさだめて我等の心をえわかるまじと言はれけり、この人がもともと己を変はる気があらざりけりと心付けき。おそらくは、あの場にて言ひ、慰まれまほしきのみなりめりと思ふ。しかし、此方の目から見るるのが、喚くばかりなれば、量が変はらず、質こそも変はらぬ。たとひ今で慰まれけりとも、何もせず、十の日の登りと沈みの後まさにまた己の痛みを喚くべしらし。その影が此方の心が痛みて、「まず今はどこに居ると考へ、末にどこへ行きたく、何になりたきことを考へよ」と言はと、「己と同心し得ず、なほ変わらぬことこそが我の深き痛み」と答はれけり。といふのがまだ書かぬが、この人が米国人なるものゆゑ、此方のごとき東亜人の見目がありまほしき痛みたり。
時の限りと言へば、たとへあるものが間に合はぬことを思ふらむ。でも、一日にこそ、限りといふのも今日と明日に変はるときなり。十二時がを限りと信を成す人もあり、日が登り始むときが限りと信を成す人もあり、七時ぐらゐ己の働き始むときが限りと信を成す人もあり。誰も正しからずと思ひ、考へ様が少し違ふに過きず。
言葉にても限りがあり。あるものを言ひたければ、あへて言葉にし得ず、言ひ回しとせとも、すべての伝てまほしからず。さらに、恋や自在にすることなど密か事があり、他の人に語るべからずと思ふ。そのさまが言葉の限りかな、人こその限りかな。言葉を学ぶ人も限りといふもののあり。たとへ、英語を学ばまほしきものが挨拶から学び、それでた易き単語や文法などに続き、一段と文章を書き得やうになり得。でも、をさをさ学ぶ人がいと長く学ぶ人のままなり、その人々の中に分がさらに行きたく、言葉の使ふ人になるまでは。その変はりこそがある壁を飛ぶごとし。
人と人の仲もあり。同じき即時通信会にて、「虚と感じ、友が欲するが、あれども心に何も感ぜず苦し」とある人が喚きけり。でも、解き様をあげず、「我も同じく、汝の心をなむわかれ」と言はれけり、それが良きことか此方が此方に尋ねけり。数学にて其方の解かぬ問があり、少し聞きたければ、あふさわに此方が解き様を出でず、「その問は此方も解かず、其方も解かぬことに愍し」と言ふごとき、もともとやはあの問が解き得やうになりける。なほやれば、いつが限りを破れ、質が変はらむず。このことが米国の人の難しさを避きがちに、た易きことに求め、聞くのの難しきことが聞きたからしを、いつまでそのままに止まらり。
この命にわたり、動かぬことが一番心に入らずことと思ふ。動くのが人の命を奪はぬども、動かぬのこそが人の時を無益にならせ、や時を奪ふ。
木之本桜