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深淵のこと

2026年5月28日

Published on May 28, 2026

4 min read


2026年5月28日(木)随筆

深淵のこと

汝深淵を長く眺むるを、深淵に眺め返さる。

 ある名誉なる方が宣びけることたり。ひと文みよ、「悪戦ふ者が己の悪となるの心付くべし。 汝深淵を長く眺むるを、深淵に眺め返さる」と。この文にて、ふと己の悪と戦ひに悪そのものにならずといふ戒めとわかり得るが、もっと深き伝へたきことありと思ふ。書くとき、常は書きたるさまこそが書き手の思ひにもかかづらはず、読み手の心こそが書きしものの何を伝へたかりしのをわかる。文学を学ぶ方なれば書き手の死なりといふものも知るらむ。

 もともとに無きもの長く探れに、そのものありとならむとわかり得と思ふ。一世にも同じき思ひがあるに、男をみえよを罪みえつと、蘇連社会主義共和国連邦にて。古き世間には、そのことわざがある人に難付くるためなりけるが、同じき考へと思ふ。あることを眺めすぐれば、何もならずとも何かがあらましと思ひてしまふ。この文の書きたる此方が己も同じと心付きけり、己がいと醜しと考ふるに、他の皆様が己以上と思ひ、己の画見るときに絶えず顔の欠くるところを探るらむ。

 深淵眺むるとき、己が心で見る場とし、見らるものを己の心も知らず本体を与へぬ。でも、眺め返さるとき、深淵こそが其方を本体を与へてけり、好み嫌ひしも。それに、其方が眺めねば、深淵が本体をか与へつるとえわからじに、知らまほしければ見るかな。他の魂のごとく、他が己のことに考へあり、己の悪きところをみゆれば他もそのものを見、己に考へが変はるらむに、他の己に前より悪く考ふれば己のしょゐならむ。

「闇に囁くもの」を書きし師ごとくこの気を使ふ書き手もありけり。闇に潜むものが真にか知らまほしき、か知るかひあると問ひ、読み手の体が寒くせさせ、軽き雷が通らりと感じさせむ。思ふばかりに、寝間の周りを見たくなり、影から見て潜むものがあらずと祈り、今の恐るのもか此方の弱さなりらむ。人が闇のこと恐れぬに、闇にあらぬのも恐れぬが、闇に何かがありといふ恐れなりらむ。

 逆へ、よく考へよ。人並みが見得ぬが、己がなむ見得る。ある学にて、他の人なれば知らぬことを知り、学の深淵のものをわかり得。只二年前に始めし薬師がさだめてもう十年働かりける薬師ほど物知らじ。前すがら、深淵にあるものが悪なりと思ふが、たとひそのものがか良なるに、何するべし。深淵なりこそ、己が中に何がありとわからず、か眺むる、か眺めぬる、いづちが正しとか思ふ。眺むべしと決するを、良きものなれば、正しく選ぶかしが、よからぬものなれば…ともかくも其方のため幸を祈る。

木之本桜


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